文脈の事故

オール・ノンフィクション

どん底まで行ってまた這い上がるよ。今はしばらくどん底を味わさせてください。

治ると信じて日々を進めることしかできなくて、いつもそこにあるのは、もう少しできたんじゃないかという鬱屈とした後悔だった。もう少しあそこでああやってれば、もう少しあれがこうなってたら。結果を覆すことはできない。どんな力が働こうともできない。あてにしていた物が崩れてしまう瞬間、何を信じればいいのか、わからなくなってしまう。そもそもそれりあてにしていたのか、信頼できるのは自分しかいないのに何やってんだって言われそう。どこまで底に行けばいいのかわからない。

順調に行けば、おれはそのコンペの作品審査に通り、受賞し、その実績で奨学金をもらい、貸与のほうは返還免除になり、留学していたはずだった。でもそのコンペの作品審査に通らなかった。想像はしてた。残念ながら…の文面を想像してた。でも実際にその文面が来たら、それはもう予想以上のショックで、抗えなくて、自分の大学院生活なんだったんだ、もう一回やり直させてくれよと思えて、自暴自棄だった。残り少ない生活で何ができるのかわからなかった。もう一度就活をする自分が見えた。あまりにもあっけなく死ぬ姿が浮かんだ。どうすればいいんだろう。

嫌だった。通っててほしかった。あいつにはできてなんでおれにはできない。ふざけんなよ。何が見られたんだよ。とさえ思えて、もう何も力が入らない。一歩抜きんでたはずだったのに。ひがんでもねたんでも何も出てこない。祝い事が何もない。消えてしまいたかった。もっとできたんじゃないかなと思って。苦しくて消えたかった。どうすることもできなくて。可哀想だった。何にも価値が見出せなくて。終わりにしたかった。

あまりにもM1とM2の中の仲の良さ良くなさが見えすぎる。ガチャ引いてM1の代に入りたい人生だった。味のないガムみたいな会話をあと何万回やればいいですか。ムラ社会すぎだしおれはこんなん求めてないから。だいたい精神病患者が頻発する環境は異常だから。当人も異常だし環境も異常。塀の中の囚われの身をいつまで演じ続ければいいんですか。突然こんな気持ちになったのはM1が仲良くお泊まり旅行してるのをツイッターで見たから。は?それおれ去年やったら全無視されてしまいにはおまえが仕切るべきではないだろとか言われて激昂寸前だったやつだから。最悪ハッピーもうずっと生まれ変わらなくていい。これはもはやおれの才能で、不運と不仲を引き寄せる才能だとか一瞬思ったけど絶対そんなことないわ、問題は全部他人にあるから。きっしょ、しねよ、全部上手いこといけばいいのに何もうまくいかね、しね

2019/07/19 02

私の近所には映写機を持ってる人がいて、毎年夏になるとよく近所の家の壁に子ども向け映画が投影されていたものだった。しかしその習慣は私が小学三年生くらいの頃に消え、以降、映写機を間近で見ることはぱたりと無くなった。それから十数年の時が経った今、私は映写機に代わるロボットを作っている。17世紀のマジックランタンとその流れが書き記された文章を読んでいたのだが、その時の興奮や喜びに似た感情を、私の幼少期の映写機のそれになぞらえていた。それから何遍もコンピュータという平面に向かい合ってvimeoで映像を観ていたのだが、たまに16mmフィルムの映写機を観ると、やはりそのベクターデータのような、理論上のピクセルという概念のない粗さに惹かれてしまう。ここにジレンマのような事態があるように思える。例えば私が短編アニメーションのことを話すとき、思い出される作品は、vimeoで観たものと上映会で観たものが混ざっている。その経験は等質であるとはいえないのだが、混ざっていて、どちらかというと上映会の方が多くて、それはいわばベンヤミンの指摘に近しくて、でもアニメーションはいることができるはずだと思って、信じてやまない。

2019/07/19

作り続けていると漠然と殺されてしまうかもしれないという得体の知れない恐れがじわじわと襲っている。昨日は学校で一番苦手なカラオケで一番嫌な記憶が植え付けられてしまったので早々と帰った。インスタには同期の女のストーリーが流れていて、あぁ絶対に相入れないんだなと確信を覚えながらその女の笑い声にあらゆる矛盾や展開を感じた。私は意志を無くしてまであの役職をやるべきだったのだろうか。求められているのが意志の無さのように感じて、我を忘れて務めていたのに挙げ句の果てにそれが自分に返ってきてしまったから、もう何もわかろうとしていない。というのをエッチして寝たら忘れた。ありがとう

2019/07/02

効率の良い詐欺

効率の良い作業をする人か否かという議論がなされていて、学部の時の最初に抱いた違和感を思い出した。周りはエンジニアが多く、少しでも効率良く作りたい人の集いで、貪欲に手描きやコマ撮りをしてきた僕はひどく場違いというか、手間をかけた手作業こそが人を感動させるはずだという迷信に引っ掛かっていた。僕は効率を厭わない。