文脈の事故

オール・ノンフィクション

2019/12/22

カメラは魔物である。ひとしきり演じ終わった後の(撮られた後の)時間を考える。それはYouTubeとかに上がっている類の、2、3分の映像がカンッというシャッターを切る音のあとにひろがる広大な時間。

ここ十年生きてきて、皆あまりに演じる意識が宿りすぎてしまってるんじゃないかと思った。○○で〜すとか、テロップとか、そういうのが日常生活に出てくるわけなかろうに、気を張らずに、ストーカーのように、他人の日常を今日も見ている。おそらく写真家はこういうことを多く考えてるんじゃないかとも思った。話すことや頭の外に出すことが良くも悪くもアレルギーになっていった二年間のなかで、自分へ自分へと、閉じていったその果ての先にあるもの。

演じるということは、その人のなかの誰かになるということだ。例えば○○に行きたいと思いますっ!というその言い方は、そいつのなかのヒカキンかもしれないし、ただそれは深層心理のようなもので、占いのようなもので、罰のようなものでもある。カメラやその前の演技を全て打ち貫くかのように、赤子が泣き始める。