文脈の事故

オール・ノンフィクション

2019/07/19 02

私の近所には映写機を持ってる人がいて、毎年夏になるとよく近所の家の壁に子ども向け映画が投影されていたものだった。しかしその習慣は私が小学三年生くらいの頃に消え、以降、映写機を間近で見ることはぱたりと無くなった。それから十数年の時が経った今、私は映写機に代わるロボットを作っている。17世紀のマジックランタンとその流れが書き記された文章を読んでいたのだが、その時の興奮や喜びに似た感情を、私の幼少期の映写機のそれになぞらえていた。それから何遍もコンピュータという平面に向かい合ってvimeoで映像を観ていたのだが、たまに16mmフィルムの映写機を観ると、やはりそのベクターデータのような、理論上のピクセルという概念のない粗さに惹かれてしまう。ここにジレンマのような事態があるように思える。例えば私が短編アニメーションのことを話すとき、思い出される作品は、vimeoで観たものと上映会で観たものが混ざっている。その経験は等質であるとはいえないのだが、混ざっていて、どちらかというと上映会の方が多くて、それはいわばベンヤミンの指摘に近しくて、でもアニメーションはいることができるはずだと思って、信じてやまない。

2019/07/19

作り続けていると漠然と殺されてしまうかもしれないという得体の知れない恐れがじわじわと襲っている。昨日は学校で一番苦手なカラオケで一番嫌な記憶が植え付けられてしまったので早々と帰った。インスタには同期の女のストーリーが流れていて、あぁ絶対に相入れないんだなと確信を覚えながらその女の笑い声にあらゆる矛盾や展開を感じた。私は意志を無くしてまであの役職をやるべきだったのだろうか。求められているのが意志の無さのように感じて、我を忘れて務めていたのに挙げ句の果てにそれが自分に返ってきてしまったから、もう何もわかろうとしていない。というのをエッチして寝たら忘れた。ありがとう

2019/07/02

効率の良い詐欺

効率の良い作業をする人か否かという議論がなされていて、学部の時の最初に抱いた違和感を思い出した。周りはエンジニアが多く、少しでも効率良く作りたい人の集いで、貪欲に手描きやコマ撮りをしてきた僕はひどく場違いというか、手間をかけた手作業こそが人を感動させるはずだという迷信に引っ掛かっていた。僕は効率を厭わない。

2019/06/21

こんな事になるんなら最初から費やすべきではなかったという確信が漏れているのです。就活から解放され進路未定に大きく舵を切った今日はおめでとう。どうなろうが自分は自分なので心配しなくても大丈夫です。頑張ろう。

 

父親の影響が大きいと思った。物心つく頃から好きなことをやれ、とはよく言われてきたけど、好きなことと仕事は別物だというか、アーティストみたいな才能が求められる職なぞお前に務まるのかみたいな、これは兄の影響も大きい。兄はひたすらおれに才能が無いと言ってくる。おれはおれで兄に才能は無いと思う。

 

どういうわけか根無し草のような半年間を送ってしまった。修士の二年間の中で一番削除したい期間はいつですかと訊かれたら今だと間違いなく答えるね。無視して走ろう。

2019/06/11

思い出したくない事を思い出す。電車の中で。男の画像を見て、似てる男のキスを思い出す。最後にホームラン打てるかな。最後にホームラン打ちたいな。最後にホームラン打てばいいの。後悔しないように。

2019/06/10

私のような車がごうごう走っている。音がしない。走っている事はわかる。かたつむりのスープを一口飲んだら、目前の景色がまるで変わってしまった。東京唯一の盛り下げ役、江戸が生い茂った頃に草が生える。ごうごう生えている。ミニマリストのサバンナに身を放り投げ、泥水の珈琲を一気に吸い上げて一瞬目を閉じたら一生が終わってしまった。