文脈の事故

オール・ノンフィクション

2019/08/27/西日とヤドカリの記録を際限なく再現する

つかの間の休息である。こないだ読んだ千葉雅也の小説で、ゲイはヘテロの雑さが憧れるみたいなことが書かれていて、その言葉を思い出す常日頃である。雨が降っている。多義の雨。

言葉だけがおぼつかなかった。ぼとぼとと喫茶店の小さい空間に、放った言葉の数々が枯葉のように地面に落ちて溜まっている気がした。しかし枯葉よりかは重く、油粘土のようにベタついてそこから離れない。

思い出したのは流れの中にいるということだった。ヤドカリのごとく、仮の宿を探しては居付き離れ居付き離れを繰り返す人生を自ら選んでしまったこの僕は、誰からも赦しを得ず、というかそもそも赦しみたいな制度は無く、あてもなくフラついては、段になったら仮の宿を決めて住みついているのだった。次はどこに泊まれるのか。泊まれる、つまり可か否かで判断しているから、そこには何か尊厳のようなものを捨ててしまった切なさがある。人はそれを覚悟とも言う。でもそうじゃないと僕は思う。なぜわがままなのに赦されてしまっているのか?それは特権階級の道楽にすぎないから?

最近はたくさんの昼と起きる。実家で。昼に起きることが赦された身分だから。それはともかく、最近はずっと堕ちてる。良い言い方をすれば、休んでる。甘えのようにムサビの友人が放った言葉を思い出す。遊んでていいと思うよ。遊ぶべきだろ。わがままな使節団みたいに振る舞うだけでお金が支給される、こんだけ筋の通らない職業があるかい?

昨日研究室に入った時、ここは自分の部屋かと思った。錯覚ではなかった。人は一年も同じ空間で過ごしていれば、そこを住処と認識するのだな。僕の研究室は北北西に窓が向いていて、そのせいか他のとこよりも日が射してくる。あったかくて、全部の不幸が溶けてしまいそうなくらい平和で、穏やかで、牧歌的の牧歌とは何か聞いたことすらないんだけどたぶん牧歌的ですらあった。気晴らしに20分歩けば野毛の飲み屋街があるし、食い物には困らない、何ら欠けてない生活ができるところだ。15時前くらいに北北西の西日が射すので、そのとき僕は決まって研究室の壁に当たった日光をぼんやり眺めていた。この西日を記録して再現できればいいのに。と際限なく思った。仮宿は仮宿らしく、そこにはなんの変哲も無い、でもなんかしら留めておきたい軌跡が刻まれてゆくのだ。