文脈の事故

オール・ノンフィクション

20170415

内定を得たはずなのに嬉しいという感情が湧かない。全くもってどうかしていると思う。就活は競争だ、と友達は以前言っていたが、その通りだと思った。今日の選考とか如実にそれが現れていた。一日で一次試験、面接を通過すれば、最終面接まで受けられて、内定を得ることができるという形式。僕はいつの間にか、相手の求めているモノと自分が持つモノを調整することに長けてしまっていた(おそらく今の大学にいるから)。一次試験が終わる。大学の友達、他大の人、おれ。通過したら電話がきて、残念だったらメールがくる。昼食を食べたレストランの中で待つ。大学の友達とおれには電話がくるものの、他大の人は残念だった。一次面接。一次試験の課題をもとに話す。試験後、すぐにおれのスマホに電話がくる。一方、大学の友達には10分経ったのち、メールがくる。最終面接。怖いもの無し。緊張感ゼロ。いつもの調子で話す。ポートフォリオ見せる。おもしろいと言われる。けども、うちはグループワーク型なので、小村君の個性は無くして作業してもらうよ。それでもよければ、全然ウェルカム。内定です。

初めて内定をもらった。いや、もらってしまったのか?大体話すことには定評があるし、大体なぜおれがもらったのかはわかる。「Is that what you want?」マックのソフトクリームのクリームのほうを手掴みした女性に声がけた店員の言葉が脳裏に蘇る。「現実は残酷だよ」誰かが言っていた言葉も同時に蘇る。誰だっけな、やくしまるえつこの歌にもあったんだけど。「ポリース、ポリース、ポリース。」《怒り》のなかで森山未來が早口で言っていた言葉も蘇るし、蘇りが止まらない。何がしたかったんだろう、おれ。一昨日久々に中学の頃に偉大な人に送ってたメールを見返す機会があった。そこはかとしれない懐かしさと忘れかけていたフレッシュさがそこにあった。でもそれはお前だけど、もうお前じゃないから。わっけわかんねぇな。嬉しいはずのものが嬉しくないと感じるなんて、麻痺というか、これが歳をとるということなのかなあ。

実際、おれは雑に就活をしてるんです。雑というか、気の抜けるところは抜いて。だから熱意のある人とか、こいつポテンシャルを持ってんなーていう人とかには張り合えないし、張り合いたくもない。ただ現実問題、熱意とかポテンシャルとかより、すぐ会社で使えそうか、現状の能力はどうか。そればかり見られるから、おれはもらって、他大の人や大学の友人がもらえないという現実が起きる。これは正しい社会だし、合理的な構造でもある。でもどこかでおかしいと思える。思えてしまう。要はあいつも受かって一緒に入りたかった、ってやつ?そんな甘い社会なんてねえぞいい加減わかれ