文脈の事故

オール・ノンフィクション

2019/07/19 02

私の近所には映写機を持ってる人がいて、毎年夏になるとよく近所の家の壁に子ども向け映画が投影されていたものだった。しかしその習慣は私が小学三年生くらいの頃に消え、以降、映写機を間近で見ることはぱたりと無くなった。それから十数年の時が経った今、私は映写機に代わるロボットを作っている。17世紀のマジックランタンとその流れが書き記された文章を読んでいたのだが、その時の興奮や喜びに似た感情を、私の幼少期の映写機のそれになぞらえていた。それから何遍もコンピュータという平面に向かい合ってvimeoで映像を観ていたのだが、たまに16mmフィルムの映写機を観ると、やはりそのベクターデータのような、理論上のピクセルという概念のない粗さに惹かれてしまう。ここにジレンマのような事態があるように思える。例えば私が短編アニメーションのことを話すとき、思い出される作品は、vimeoで観たものと上映会で観たものが混ざっている。その経験は等質であるとはいえないのだが、混ざっていて、どちらかというと上映会の方が多くて、それはいわばベンヤミンの指摘に近しくて、でもアニメーションはいることができるはずだと思って、信じてやまない。