文脈の事故

オール・ノンフィクション

傾向

今思えば、小2の頃から、傾向があったんです。最初は、ターザンのビデオの赤子時代のターザンが布に被され、泣くシーン。小学校の放課後、うちに誰もいないのを見計らって、音量35くらいで何度も見ていました。そして小3の頃、僕は家のデジカメを使うようになりました。二階の窓の外から、斜め隣に住む30代前半くらいの子持ちの父親めがけて、フラッシュを焚いて盗撮していました。父親は完全に気づいていて、こちらをジロジロと見つめていました。そしてそれからも、電車の中で向かいに座る男性を撮ったり、友達の家族と一緒に飯能に行ったときに友達の父親の手を撮ったり。あと気になる動画をCravingExplorerで落としてDVDに入れたり。未だにたまに、そのDVDが見つからないか、探すときがあります。

初めて自分が"アレかもしれない"と言った日の、母の反応を今でも覚えている。「そんなこと、普通に言わないでちょうだい」。初めて感情的に払いのけられたように感じた。高校受験したい。いや、じゃあなんで中学受験したのか考えなさい。美大編入したい。ありえない、なんで慶應にいるのか考えなさい。よくよく考えれば、自分の過度な期待が引き起こしていた誘惑に、母は一つ一つ、悟すように言い聞かせた。そして僕はその一つ一つに納得していた。それは紛れもなく論理だった。

だが、その事実だけは、母親が容易く論理で片付けられないものだった。母は、その事実を消化するのに、一年を要した。愛情をかけ、双子だったので苦労も二倍かけた。そんな愛息子が、この国で最も潜在的で差別的な標的に変貌を遂げているという事実。その事実を受け入れた頃、母親は、その反動なのか、憲法九条改正反対のデモに参加するようになっていた。